2021/6月のメッセージ [ 余白・間・行間 ]

余白 ・ 間(ま)・ 行間
を 読み取る

 

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近年、何ごとにおいても、行間を埋め尽くし、答えまで提示しないとわからない時代だと言われる。

余白、間(ま)、行間……を読み取る、想像する。
小中学校くらいだっただろうか、国語の試験によく出てきた問題を思い出す。
“この作者(この人物)は、何を言いたかったのか”
”この文章から、どのようなことが読み取れるか”
想像力に長けた人は得意かも知れないが、そうでないと頭を悩ます問題であったかも知れない。
確かに「見えないところから読み取る、汲み取る」ということは難しい。
だが、ちょっと意識して想像力を働かせれば良い。

そう書きながらも、へそ曲がりの私は
「作者が何を言いたかったのかなんてわかるはずないでしょう!作者本人ではないのだから。
私が何を言いたいかということなら書けるけどね」と言ってしまいそう…。

 

冗談はさておき参考までに、
余白とはなにもない空間。
新聞、雑誌、単行本、コピー用紙への印刷物などには必ず余白がある。
隙間なくギッシリ埋め尽くされた紙面より、余白をしっかり取ったレイアウトの方が読みやすいし美しい。

これを余白の美という。
全体を埋め尽くすのではなく、あえて何も無い部分を作ることで、全体の美しさを表現している日本特有の美意識とも言われる。
ポストカードなども余白が多いものほど強く印象に残るし、目を引く力もある。
私が描く筆文字も、この余白を大事にしている。

 

間(ま)とは「二つのモノやコトのあいだ」のことだが、意識しなければ見落としがちだ。
私たちの周りにはさまざまな「間(ま)」があり、「空間の間(ま)」、「時間の間(ま)」、「人と人との間(ま)」、さらには、身体の中にも「間(ま)」があるという。

帯津先生によると、身体の中には何もない空間がたくさんあり、人間のお腹の中は隙間(すきま)だらけ、ぽっかり空いた空間に臓器がいくつか吊り下がっている、というイメージだとか。
何年も前のことだが手術によって小さい臓器を摘出したことがある。
しばらくの間、その部分にぽっかり穴があいたようで、なんとも落ち着かない変な気分だったことを思い出した。

日常的によく使われる言葉に「間が抜けている」とか「間が悪い」がある。
その「間(ま)」を意識することは、想像力を働かせて、目に見えないモノやコトを感じとろうとすることなのだ。

 

行間とは文章の行と行との間をいう。
「行間を読む」という言葉は、文章には直接表現されていない真意をくみ取ることをいう。
一般的には文章だけでなく、会話においても「相手が言葉では明確に表現していないが、伝えたいと思っている意図をくみ取る」という意味でも使われる。
先に、学校の試験問題について書いたが、その多くはこれに当たるだろう。

日常生活の中から例えてみると「天気予報」
「今日は、曇りのち雨となるでしょう」とか、「今日は日中晴れますが、にわか雨の降るところもあるでしょう」と予報士が伝える。
それを見て(聞いて)いた視聴者は、傘を持って出かける人と持たずに出かける人とに分かれる。
持たずに出かけて雨に降られると、「傘を持って行けとは言っていなかった」と憤る。
そういう人には、「そんなことぐらい自分で判断しなさいよ」と言いたくなるが、現実にこのような人の方が多いらしい。

冒頭にも書いたように、余白、間、行間から「ないものを見る、汲み取る」ことは難しいと感じるかも知れない。
だが、ちょっと意識することで、自分なりに想像することも汲み取ることもできるのだ。