自分の終活も…

昨日、昨年12月以来、久しぶりに実家に行ってきた。
コロナ禍前から母の部屋の片付けをおこなっていたが、コロナと実家の繁忙期にはできずにいたので、ここまで長引いてしまった。

長引いた原因は、それだけではない。
母専用の使用空間は居室10畳、それに続く納戸、広縁(4畳ほど?)、そして座敷蔵の1階。
そこに、日常の衣類、寝具類、いまは着なくなった着物(途方もない枚数)、趣味の短歌・俳句・川柳などの自作品や書籍類などなど、母一人だけの荷物なのに我が家二人分よりはるかに多い品々。
昔の人はものを大事にするとは言え、よくぞまあこんなに…と感心しきり。

本人はそれぞれの品物にいろんな思いがあって残しておくのだと思うが、私は二十数年前の引っ越しをきっかけに、その考えをあらためることにした。
自分にとって大事なもの、懐かしいものであっても、残された者からみるとどうでも良いものかも知れない。
それらの処分に余計な労力をかけることになる。
母の荷物を片付けながら、さらに強く思った。
だから、自分が管理できる範囲内で大事なもの、たとえば日常生活に必要なもの、仕事や趣味などの楽しみのために必要な道具・書籍類、その他どうでも良いものをちょっとだけ残すようにしている。
そうは言っても、気がつくとどんどんたまってしまう。(実は、どうでも良いものがいっぱいかも⁉)
だから定期的に持ち物チェックをしている。

母は家を離れて施設に入っているとはいえ、我々子供たちより元気なくらい元気だ。
居ないところで片付けるというのは、正直心が痛む。
かと言って、片付けの時に母を連れ帰っても、母の性分からすると「それは取っておいて。それも…」ということになりかねない。
きょうだい皆が決して若くはない。それに、今のところ私を除き故障者ばかり。
子供の身勝手かも知れないが、動けるあいだに何とかしておかなければならない。
その気持ちが、片付けへと向かわせた。

「親の終活だけでなく、自分の終活もしなければ…」
兄姉たちの口からこぼれたひと言だった。

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