2006/12月のメッセージ

      たかが雑草と言われても、
      名前のない草はない。
      その1本1本が命を持ち        
      個性を持っている。     
      踏まれても 踏まれても 
      立ち上がり          
      強く生きている。       
      苛められても
      罵られても
      雑草のごとく生きたい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いじめによる悲しい事件が後を経たない今、小中学校などでは児童生徒・保護者向けに、いじめに関する文書などを発行しています。
この“いじめ”は、今始まったことではありません。
我が家の子供が小さかった頃も、歴然といじめが横行していました。
その頃はまだ、自分の子どもばかりか近所の子どもでも、悪いことやいじめをしている子どもを見かけたら注意をするということができましたが、今はそれも難しい世の中です。
昔のように、「○○ちゃんがいじめた!」などということもできず、いじめを受けている子どもは親にも先生にも言えず、ただひたすら耐えています。
 
昔は、必ずガキ大将がいました。
何か悪いこと(今の時代と比べると取るに足らない可愛いことで、悪戯といってもよいかも知れません)をする時も、いじめられている子がいる時も、このガキ大将が活躍していました。
大人から注意される時は潔く受け入れ、弱いものいじめに対しては正義を貫きました。
今は、このガキ大将のような子どもも、子どもに注意する大人もいなくなってしまいました。
なぜ、大人は子どもに注意することができなくなってしまったのでしょう。
 
そうです。
大人社会が「いじめ社会」としてずっと続いてきているからです。
子どものいじめより、むしろ陰湿かも知れません。
いじめをする人間は、大方妬みや嫉みといった感情に支配され、相手の心を深く傷つけていきます。
ややもすると、人権侵害、言葉の暴力ともいえるような言動をするのですが、その本人は自分が何をしているかということには全く気づいていません。
 
「天知る、地知る、我知る」という言葉がありますが、誰も見ていないと思っていじめをする人、意地悪をする大人もいますが、誰よりも自分自身が一番よく見ているということを忘れてはいけないと思います。
私は子供のころ、いじめたりいじめられたりした経験はありませんでしたが、大人になってから、言葉による暴力といったような経験をしました。
そのような時は、相手が激高すればするほど自分は冷静になり、相手をしっかりと見ています。
そして、自分が相手の立場であったなら、こんな時どのような形相をするのだろう?きっと恐ろしい顔になるだろうな、などと考えます。
 
子どものころは、道端の雑草でよく遊びました。
嫌なこと、辛いことがあった時などは、その雑草をよく思い浮かべました。
「雑草」と一口に言いますが、どの草も1本1本名前を持ち、個性があり、踏まれれば踏まれるほど強くなります。
踏まれても踏まれても、一度は倒れても再び立ち上がります。
人間も、どんなに暴言を吐かれても、踏みにじられても、意地悪されても、立ち上がって強く生きていくことができます。
その雑草のごとく強く生きていきたいと、常々思っています。

前の記事

新聞記事より

次の記事

12月