何ごとも受け止め方、考え方一つで違ってくる

ここ数年、電車の遅延・運転見合わせが当たり前のように起きている。
20年ほど前、現在地を転居先として選んだ理由の一つは、「JR線に比べ、電車のトラブルがほとんどない」ことだった。
だが、最近はJRも私鉄も関係なく、何らかの理由による遅延や人身事故による運転見合わせ等が後を絶たない。
安全確認等の理由による遅延はやむを得ないとしても、ドアが閉まりかかった電車に無理矢理飛び乗ろうとしたり、乗客同士がトラブルを起こしたり…。
 
昨夕、新宿駅で次発電車待ちの先頭に並んで待っていたところ、ぎゅうぎゅう詰めの先発電車のドアが閉まった。
ところが、目の前のドアからピンクの傘がはみ出している。
その傘を持った若い女性は、身動きすらできずに困ったような顔をしている。
<えっ!あのまま発車してしまう?>と思っていると、ホームにいた駅の係員がすぐに気づき、一旦ドアが開いた。
すると、その瞬間に階段を駆け下りてきた若い男性が、そのドアと隣のドアからねじ込むように乗り込んだ。
ラッシュ時間帯には、このようなことが頻繁に起きているのだ。
家路を急ぎたい気持ちはよくわかるが、どれだけ多くの人に迷惑をかけていることだろう。
一歩間違えば、とんでもない事故につながることもある。
 
人身事故は、もっとよくない。
最近、立て続けに遭遇している。
なぜ、命を粗末にするのか?
なぜ、与えられた命を生ききろうとしないのか?
鞭打つことを言うと思われるかも知れないが、自分にとって一番楽な道を選んでいるのではないか?
おそらく、どれだけの人に迷惑をかけることになるか、などという考えには及ばないのだろう。
 
むかし、昔、自分で車を運転していた当時のことを思い出す。
<この先のカーブを道なりに走らず、このまま真っ直ぐ走って行ったら・・・>と、一瞬脳裏をかすめたようなことが何度かあった。
その衝動に突き動かされていたら、すべてのことから解放され、自分は楽になったかも知れない。
だが、それは一番卑怯なことなのだ。
子供のころから “死んでいたかも知れない” というような場面を何度かくぐり抜け、自分が生かされているのはなぜか?
 
人間は、いつか必ず死ぬときが来る。
どんなに生きていたくても、必ず死は訪れる。
だったら、生きてやろうじゃないか!!と思えないだろうか。
辛くても、苦しくても、それが一生続くわけではない。
辛いこと、苦しいことがあるからこそ、ちょっとしたことにも幸せを感じることができるのだ。
辛いのは誰かのせい? 苦しいのは誰かのせい?
何ごとも、自分の受け止め方、考え方一つで違ってくることを知って欲しい。